怒り

メンタリストDaiGo、好感度が1000000%上がりました。漢だ。人は何に怒るかで人柄がわかる。


京アニ実名報道【人の死を金としか考えないマスコミ】の正体を解説【NHKも新聞もグル】

 

僕は最近、日本政府に対して怒っている。金のない人から税金取って、金のない人に回すどころか金持ち優遇して、外国ばかり気にして国内のことなど見ていない。

 

好きなことを我慢して家計切り詰めて、毎日自転車操業みたいに生きてる人がいる。仕事辞めたら生きていけないから、嫌な仕事でも堪えて頑張ってる人がいる。我慢して我慢して、無理がたたって病気になったり、耐えきれなくて自殺したりする人がいる。

そんな人たちの痛み、悲しみ、苦しみに共感するどころか、自己責任だと笑って、日本の国旗振って自分を愛国者などと名乗る奴がいる。その先にいるのが今の政府、自民党。弱者の声が聞こえない人間の何が愛国者だ。二度と愛国を名乗るな。

 

このことを真っ向から叫んでる政治家は山本太郎だった。だから僕は「れいわ新選組」を応援することにした。もちろん政策すべてに賛同するわけじゃないが、国として一番やらなきゃいけないことがわかってると思った。

 

今まで投票行ったことない人、何となく自民党に入れてる人、どうかその一票をこの国の行く先を変えるために使ってください。疑問を持った人が野党に入れなきゃこの国は変わらない。

 

「れいわ新選組」の公約は綺麗事でしょと思ってる方、調べれば調べるほど理に適ってるし真っ当だとわかります。支持者の方々が山本太郎の発言でQ&A動画作ってるのでどうぞ。

moneygement.net


政治のことを言うと友達が減ると言いますが結構です。言いたいことは今後も言います。優しさの欠片もない日本で次の世代の子どもたちに育ってほしくないので。

 

DaiGoの怒りに乗っかって勢いで自分の怒りも書いてしまいました。DaiGoの怒りの矛先はマスコミだけど、権力者とそれに組する者は共感性を失うって話に繋がってますね。共感してるふりして、何に怒ってるのかもわからないヘイト差別集団もいますが。

おかしな社会になっていると感じる今日この頃です。

NHKはぶっ壊すべき?受信料のおかしなところ

受信料という仕組みのどこがおかしいのかをはっきりさせて、NHKはぶっ壊すべきなのかを考えました。

 

NHKから国民を守る党(通称、N国)の立花孝志さんが参議院議員に当選してから、色々と物議を醸しています。

番組内でN国に対して批判的なコメントをしたマツコ・デラックスを名指ししてテレビ局の前で抗議活動を行ったり、街頭演説中にヤジを飛ばした一般人に対して私人逮捕と称して執拗に絡んだり…。N国に投票した人の中には自分の選択を後悔している人もいるようです。

N国に投票したが取り消したい。恥ずかしい。ごめんなさい。 - メロンダウト

一方、NHKや受信料制度に対して批判的な声も確かにあって、それがN国が議席を獲得した一因であるのは間違いないと思います。N国はNHK放送のスクランブル化(契約者だけが視聴できるようにすること)を目指して活動しています。

 

受信料という仕組みはなぜこんなにも不満に思われているのでしょうか?

多くの人は「NHKを見るためにテレビを買ったわけじゃないのに、なぜNHKに受信料を払わなければいけないのか」と思っているんだと思います。それに対して、NHKは「NHKは公共放送だからみんなに受信料を払ってもらう必要がある」という趣旨のことを言っています。

……なんかずれてますよね?NHKはお茶を濁したようなことを言っていますが、もっとはっきり言うべきなんです。「テレビを買うということはNHKを見るということなんだ!だから受信料を払え!それが嫌ならテレビは買うな!」と。

 

なぜそんなことを言えないのかと言えば、もちろん本当にテレビを買わなくなって受信料を取れなくなったら元も子もないからです。でも本来は、例え民放がなくなったとしても、NHKだけでテレビを普及させてその受信料でやっていけるくらいの質をNHKは担保しなければいけないはずなんです。それが公共放送を提供するNHKに任されている役割です。

しかし、NHKはそんなことを言えないくらいに弱気になっています。「民放を見るためにテレビを買った視聴者から受信料を掠めとるセコい組織」に見えるのはそういう理由です。

 

受信料徴収の仕方も中途半端です。NHKは「受信機(テレビのこと、ワンセグを含む)を持つ世帯には契約義務がある」と言っています。だったらテレビを買う時点でNHKと契約しなければ買えない仕組みにすればいいんです。英国のBBCはそういう仕組みでやっています。

もしくは受信料を払わなければ、民放を含む放送全てが見れないようにすればいいんです。B-CASカードを抜けばテレビは見れなくなるのだから、技術的には可能です。(放送法第20条第11項に違反するという話もあるようですが。)

今の受信料制度では、地上波デジタル放送なら何でも見れる状態でテレビが売られており、消費者にとってはハードルが低くなっています。しかし、後から訪問員がやってきて「実は受信料払ってもらわなきゃいけないんですよ〜」と言われても「聞いてないよ!」となるのは当然です。しかも、訪問員は足で各世帯を回って受信機の有無を確認するので、かなり非効率です。その結果、支払率(受信料を払うべき世帯に対する実際に払っている世帯の割合)は79.7%と微妙な数字になっています。(英国のBBCは98%前後です。)これでは払っていない人の方が得じゃないかと言われても仕方ありません。

 

では、NHKスクランブル化してしまうべきかというと、私は反対です。なぜなら「公共放送としての役割を果たせなくなる」というNHKの言い分は確かに当たっているからです。公共放送というのは、民放のように視聴率が取れる番組ではなく、公共の福祉に資するような文化的価値のある番組を作ることが求められています。子育て世帯の多くが見る教育番組はもちろんですが、社会問題を提起するようなドキュメンタリーもNHKでなくては作れないものです。問題なのは、そういうありがたみを押し付けがましく主張してきて、「そんなの必要としてない」と言ってる人からも受信料を掻っぱらおうとしているところです。「じゃあテレビ買うなよ」とは言えないのがNHKの残念なところです。

 

インターネット放送の台頭もあり、テレビを持たない世帯も増えています。テレビ離れが進むと、現状の受信料制度が成り立たなくなるのは目に見えています。一方、NHKもネット配信を始めたことで受信料制度を改めるという話があります。ネット配信となると誰が見ているかはもはや追えないので、全世帯から受信料を徴収する可能性もあります。

一見納得しそうですが、これは消費者からしたら絶望的です。なぜなら、テレビの場合は「NHKには見る価値がない」と思えば「テレビを買わない」という選択をすることができました。そうすればNHKと契約する必要はありません。しかし、全世帯徴収となれば、もはやNHKに価値があろうとなかろうと、私たちには何もすることができません。NHKは確実に腐敗し、NHKをぶっ壊すことしかできなくなるのです。だから私はNHKの全世帯徴収には断固反対です。あくまでもテレビに付随するものと位置づけるべきだと思います。

今のセコいやり方を引きずるか、そこから抜け出すか、NHKは岐路に立たされているのです。NHKをぶっ壊す?いやいや、こっちからぶっ壊していってやんよ!」くらいの気持ちで、NHKには新しいテレビのあり方を示していってほしいと思います。

愛国心とは何なのか

一部の人がよく言う「愛国心」なるものがよくわからないので、愛国心とは何なのかを自分なりに考えてみました。

 

二日前には終戦記念日がありました。終戦記念日とは、第二次世界大戦における日本の降伏が国民に公表された日のことです。(終戦の日敗戦の日(と言うと怒る人もいる)などとも言うようです。)この日は例年、靖国神社のあたりが騒がしくなりますね。靖国神社は日本の戦没者を祀っているところなので、「日本のために命を懸けた人」を讃えるために参拝する人がいるようです。自称「愛国心」のある人は、おそらく「日本のために命を懸けた」ところに感涙にむせぶ思いを抱いているのだと思います。

 

私は自称「愛国心」のある人が何をもって「愛国心」があると言っているのかがよくわかっていません。

私は和食が好きですし、他にも日本の好きなところはたくさんありますが、私の日本に対する「好き」と靖国神社を参拝する人たちの言う「愛国心」はどこか違う気がします。自称「愛国心」のある人たちにはどこか信仰的なところがあって、私にはわからない何かを崇拝しているように見えるのです。いったいなにをありがたがっているのかはわかりませんが、その正体は気になるものです。

 

愛国心とは、文字通りに考えれば「(自分の)国を愛する心」です。「国」と「愛する」と「心」の意味の捉え方によっては、愛国心の意味も全く変わってきます。私にとっては「自分の国」とは日本のことです。

ところで、日本とは何でしょうか?世界地図の上でどこにあるかと言われたらここと指差せますが(指差していいのかわからない場所もありますが)、日本とは何かと言われたらはっきりとは答えられないような気もします。

言うまでもなく、日本とはひとつの国家です。国家とは世界を分割する枠のことで、そのひとつに「日本」という名前が付いています。時代とともに形は変われども、「日本」という枠が想定され、現代まで存続してきたことは確かです。

私は「日本」という枠の中にある日生まれて、その枠の中で育ってきたことになります。「国」とはその枠のことですから、「国」を「愛する」とは、その枠自体を「愛する」ということです。「愛」も強かったり弱かったり、右寄りだったり左寄りだったりするかもしれませんが、ここはとりあえず大事にするくらいの意味に捉えれば、「国」という枠が壊れないように大事にして、その枠を壊そうとする者からは守ることが「愛国」ということになります。「日本を守る」とか「お国のために」みたいな文脈で使われるときの「愛国心」は、おそらくこういう意味で使われていると思います。

 

ところで、幼き日の私には「日本」なんてものは頭にはなくて、あるのはただ、友達と遊んだこととか、家族旅行に行ったこととか、私が見て、感じて、経験したことだけです。そうした思い出にいつのまにか「日本」というタグ付けがなされていて、いつも友達と遊んでいた公園も、家族旅行で行った色んな場所も、気づけば「日本」という枠の中に回収されていました。これは結構驚くべきことだと思います。

自分の育ってきた場所の思い出が「国」の思い出になって、自分自身もまた「国」の一部になっていて、私はあたりまえのように自分のことを「日本人」だと思っていました。しかし、よく考えてみれば、私はいつから「日本人」になったのでしょうか?幼い頃は気にもしなかったのに、いつからか「何かに目覚めた」かのように自分は「日本人」だと思うようになっていました。「愛国心に覚醒した!」なんていうとかなり際どい表現ですが、自分のことを「日本人」だと疑いもなく考え始めるというのは、その表れかもしれません。

これは、「国」という枠で世界を分割することに、いつのまにか慣れてしまっていたからだと思います。「国」という考え方に馴染むと、だんだん物事をその枠に当てはめるようになります。そして、自分の好きなものも嫌いなものも「国」の話にすり替えられて、自分が本当のところは何が好きで何が嫌いなのかよくわからなくなってしまいます。寿司や蕎麦や天ぷらが好きだから「日本が好き」とか、マナーの悪い中国人観光客を見たから「中国は嫌い」と言うのは、自分の好き嫌いを「国」の話にすり替えているのに他なりません。

「国」なんて考え方は、いつのまにか信じるようになっていただけで、自分が見て、感じて、経験したこととは関係のないことです。ようやく「愛国心」の正体が見えてきました。「愛国心」とは一見、「自分の国」を愛する心のように思えます。しかし、愛しているのは「自分の国」ではなくて、「国」という枠で世界を分ける考え方そのものです。自称「愛国心」のある人は、「国」という枠があることを強く信じていて、自分の好きなものに対する「好き」という気持ちが「自分の国」に対する「愛」にすり替わっている人です。

もしかしたら、自分の好きなものや嫌いなものははっきりと自覚して、それでも「国」という枠で世界を分けることを好む人はいるかもしれません。その人こそは生粋の愛国者です。しかし「日本は好き、韓国は嫌い」とか言っている人の多くは、おそらく自分が本当は何が好きで、何が嫌いなのかわかっていないでしょう。そして、そのすり替えられた「愛国心」は誰かに焚きつけられたものであることすら気づけていないのです。

 

「日本が馬鹿にされている!」とか「日本のために!」とかいう表現を見たら身構えるべきです。自分の好きなものや嫌いなものを「国」にすり替えて利用しようとしている人がいるということです。「国」の代わりに愛すべきものがあるとすれば、自分が見て、感じて、経験したことです。自分で学び、考えたことを大事にするべきです。

私は世界が「国」という枠で分かれていることは本質ではなくて、ある場所に集まっている人々とその人たちが生み出した文化で世界が色付いているだけなんだと思います。国というのは本当はそういう色のグラデーションのことじゃないでしょうか。愛国心とは、「国って色々あるけど、みんな違ってみんないいね」と思う心だと、私は思います。

このブログの使い方

このブログは、私が思っていることをまとめ、文章にするための練習の場として使おうと思っています。

 

20代も終わりに近づき、長いモラトリアムの末に、ようやく私にも「自分も社会の一員なんだな」という自覚が出てきました。そして、「社会を作っていく一員として、自分の意見が言える人間にならないとな」と思うようになりました。例え気に入らないことがあっても、自分の意見を言えない人間にはそれを変えていくことはできません。

自分の意見を言うためには、自分の思いを正しい言葉で表現し、正確に他人に伝えられるようにしなければなりません。私はどうにもこの作業が苦手なので、このブログを書くことを通して慣れていきたいと思っています。

 

このブログでは、次のことに気をつけて文章を書いていこうと思います。

・その文章で言いたいことはなにか。

・論理的な構成になっているか。

・正しい言葉遣いか。ミスリーディングでないか。

・情報源はどこか。信憑性のあるものか。

論文を書く上でも気をつけていることですが、普段から他人に何かを伝えたい時にも大切なことだと思っています。

 

このブログは文章を書くための練習の場であると同時に、私の思いを表現する場でもあります。表現者としてはまだまだ未熟ですが、自分の思いを言葉にし、自分の意見として発信できるように心がけていきたいと思います。