愛国心とは何なのか

一部の人がよく言う「愛国心」なるものがよくわからないので、愛国心とは何なのかを自分なりに考えてみました。

 

二日前には終戦記念日がありました。終戦記念日とは、第二次世界大戦における日本の降伏が国民に公表された日のことです。(終戦の日敗戦の日(と言うと怒る人もいる)などとも言うようです。)この日は例年、靖国神社のあたりが騒がしくなりますね。靖国神社は日本の戦没者を祀っているところなので、「日本のために命を懸けた人」を讃えるために参拝する人がいるようです。自称「愛国心」のある人は、おそらく「日本のために命を懸けた」ところに感涙にむせぶ思いを抱いているのだと思います。

 

私は自称「愛国心」のある人が何をもって「愛国心」があると言っているのかがよくわかっていません。

私は和食が好きですし、他にも日本の好きなところはたくさんありますが、私の日本に対する「好き」と靖国神社を参拝する人たちの言う「愛国心」はどこか違う気がします。自称「愛国心」のある人たちにはどこか信仰的なところがあって、私にはわからない何かを崇拝しているように見えるのです。いったいなにをありがたがっているのかはわかりませんが、その正体は気になるものです。

 

愛国心とは、文字通りに考えれば「(自分の)国を愛する心」です。「国」と「愛する」と「心」の意味の捉え方によっては、愛国心の意味も全く変わってきます。私にとっては「自分の国」とは日本のことです。

ところで、日本とは何でしょうか?世界地図の上でどこにあるかと言われたらここと指差せますが(指差していいのかわからない場所もありますが)、日本とは何かと言われたらはっきりとは答えられないような気もします。

言うまでもなく、日本とはひとつの国家です。国家とは世界を分割する枠のことで、そのひとつに「日本」という名前が付いています。時代とともに形は変われども、「日本」という枠が想定され、現代まで存続してきたことは確かです。

私は「日本」という枠の中にある日生まれて、その枠の中で育ってきたことになります。「国」とはその枠のことですから、「国」を「愛する」とは、その枠自体を「愛する」ということです。「愛」も強かったり弱かったり、右寄りだったり左寄りだったりするかもしれませんが、ここはとりあえず大事にするくらいの意味に捉えれば、「国」という枠が壊れないように大事にして、その枠を壊そうとする者からは守ることが「愛国」ということになります。「日本を守る」とか「お国のために」みたいな文脈で使われるときの「愛国心」は、おそらくこういう意味で使われていると思います。

 

ところで、幼き日の私には「日本」なんてものは頭にはなくて、あるのはただ、友達と遊んだこととか、家族旅行に行ったこととか、私が見て、感じて、経験したことだけです。そうした思い出にいつのまにか「日本」というタグ付けがなされていて、いつも友達と遊んでいた公園も、家族旅行で行った色んな場所も、気づけば「日本」という枠の中に回収されていました。これは結構驚くべきことだと思います。

自分の育ってきた場所の思い出が「国」の思い出になって、自分自身もまた「国」の一部になっていて、私はあたりまえのように自分のことを「日本人」だと思っていました。しかし、よく考えてみれば、私はいつから「日本人」になったのでしょうか?幼い頃は気にもしなかったのに、いつからか「何かに目覚めた」かのように自分は「日本人」だと思うようになっていました。「愛国心に覚醒した!」なんていうとかなり際どい表現ですが、自分のことを「日本人」だと疑いもなく考え始めるというのは、その表れかもしれません。

これは、「国」という枠で世界を分割することに、いつのまにか慣れてしまっていたからだと思います。「国」という考え方に馴染むと、だんだん物事をその枠に当てはめるようになります。そして、自分の好きなものも嫌いなものも「国」の話にすり替えられて、自分が本当のところは何が好きで何が嫌いなのかよくわからなくなってしまいます。寿司や蕎麦や天ぷらが好きだから「日本が好き」とか、マナーの悪い中国人観光客を見たから「中国は嫌い」と言うのは、自分の好き嫌いを「国」の話にすり替えているのに他なりません。

「国」なんて考え方は、いつのまにか信じるようになっていただけで、自分が見て、感じて、経験したこととは関係のないことです。ようやく「愛国心」の正体が見えてきました。「愛国心」とは一見、「自分の国」を愛する心のように思えます。しかし、愛しているのは「自分の国」ではなくて、「国」という枠で世界を分ける考え方そのものです。自称「愛国心」のある人は、「国」という枠があることを強く信じていて、自分の好きなものに対する「好き」という気持ちが「自分の国」に対する「愛」にすり替わっている人です。

もしかしたら、自分の好きなものや嫌いなものははっきりと自覚して、それでも「国」という枠で世界を分けることを好む人はいるかもしれません。その人こそは生粋の愛国者です。しかし「日本は好き、韓国は嫌い」とか言っている人の多くは、おそらく自分が本当は何が好きで、何が嫌いなのかわかっていないでしょう。そして、そのすり替えられた「愛国心」は誰かに焚きつけられたものであることすら気づけていないのです。

 

「日本が馬鹿にされている!」とか「日本のために!」とかいう表現を見たら身構えるべきです。自分の好きなものや嫌いなものを「国」にすり替えて利用しようとしている人がいるということです。「国」の代わりに愛すべきものがあるとすれば、自分が見て、感じて、経験したことです。自分で学び、考えたことを大事にするべきです。

私は世界が「国」という枠で分かれていることは本質ではなくて、ある場所に集まっている人々とその人たちが生み出した文化で世界が色付いているだけなんだと思います。国というのは本当はそういう色のグラデーションのことじゃないでしょうか。愛国心とは、「国って色々あるけど、みんな違ってみんないいね」と思う心だと、私は思います。